OLC2024中期経営計画

OLCはこの2024中期経営計画の中で、

ゲストの体験価値を向上させながら、財務数値を回復させる」という方針を打ち出しています。具体的には「2030年までアテンダンスは(2024年の入園者は2600万人程度)増やさず、しかし営業利益は1000億円以上を確保する」ということが明確に謳われていますこの一見二律背反することが何を意味しているのか考えてみたいと思います。

 

     OLCの2024中期経営計画

 

OLCグループは2022~2024年までの中期経営計画を発表しました。

ザーッと要約してみます。

 

この3年間は「新型コロナウイルス感染症流行による影響からの回復」と位置付けています。また、この計画を起点に「起こり得る変化に柔軟に対応できる体制の確立を図る」とともに「OLCグループが掲げる2030年に目指す姿を実現させる」とあります。

 

【 要約 】

  • 目標
  • ゲスト体験価値向上
    • 一日当りの入園者数上限を2019年以前に引き下げることで、快適なテーマパーク環境を目指す。
    • 多様化するニーズに柔軟に対応し、新たな体験価値を見出していただけるような新規施策を積極的に展開する。
  • 財務数値の回復
    • ゲストの来園回帰を確実に図りながら、財務数値を段階的に回復する。
    • 東京ディズニーシー「ファンタジースプリングス」開業に伴うキャパシティ

拡大により、一段高い集客レベルへ引き上げ、連結決算数値目標(営業利益1000億円以上、営業キャッシュフロー過去最高、ROA8%以上)を達成する。

 

  • 戦略
  • テーマパーク体験の質の向上
    • 一日当りの入園者数上限を2019年以前に引き下げることで、いつ訪れても快適なテーマパーク環境を目指します。
    • 「ファンタジースプリングス」開業など、本計画期間中にスタートする新規コンテンツや、既存施設のリニューアル等テーマパークの魅力をさらに高めてまいります。
    • 平準化を推進することにより、2024年度の入園者数は2600万人程度とします。
    • 環境変化にも対応できる効率的なテーマパーク運営を確立します。
  • ホテル事業戦略

本計画中に「東京ディズニーリゾートトイストーリーホテル(2022年4月5日開業)」「ファンタジースプリングス内新規ホテル(2023年開業予定)

で計、6つに拡大。

  • 人事戦略
    • 新たな発想でゲストサービスの向上や業務改革を推進するために、従業員一人ひとりの働きがいを高め、個人と組織のパフォーマンスを最大化してまいります。
    • 高い付加価値を提供し続けられる人員体制の構築、デジタル環境の整備など、従業員が働きやすい環境づくりにも取り組んでまいります。
  • 投資戦略
    • 2022年からの5ヵ年では着工中の「ファンタジースプリングス」開業や、既存アトラクションの魅力向上に繋がる開発を行い、「スペースマウンテン

および周辺環境の一新(2027年オープン予定)」をしてまいります。

  • 新たな成長戦略として、TDR内外の新規領域への種まき、人的資本への投資を含むサステイナビリティに関わる取り組みもして行きます。
  • 財務方針
    • 創出された営業キャッシュフローを投資に優先して配分します。
    • テーマパーク事業への投資に加え、ESGや将来の種まきにも着手します。
    • 長期持続的に企業価値を向上させるとともにさらなるキャッシュフローを創出し、安定配当の方針を継続します
    • 本計画期間中に2019年以前の水準に戻すことを目指してまいります。

 

 このような感じですが、企業規模の違いはあれ、一般企業で行われている全社事業計画は、A3の用紙で4,50枚になり、各部門においては其々でさらに詳細の事業計画を持っています。ですから、この3年をもっと詳細に詰めた結果に出されたのがこのサマリーだと思います。この計画で明らかになっているのはゲストの体験価値を向上させながら、財務数値を回復させる」ということ、具体的には「2030年までアテンダンスは(2024年の入園者は2600万人程度)増やさず、しかし営業利益は1000億円以上を確保するということです。

このことは何を意味するのでしょうか?
一般的に、ゲストの体験価値を向上させるということは、アトラクションの導入など投資においても新たな手を打つ必要がありますし、サービスにおいても人手がかかるということになりますので、財務上、投資額が膨らみ、人件費が増大していくことになります。ということは通常、財務数値を回復する、1000億円を確保するには相当の努力が必要になるということになります。

オリエンタルランド社は本計画中(2024年まで)に2019年以前の数値に戻すと言っております。以前ということは何処を基準に考えて良いのか分からず、とても曖昧な言い方だと思います。2019年は1月1日~12月31日、会計年度でいうと2018年度と2019年度に跨ることになりますので、この中では、何時、何を指しているのか分かりませんが、私はとりあえず、2019年の持つ意味を考えてみました。

【 考察 】

2018年度(2018年4月1日~2019年3月31日)の決算と2019年度(2019年4月1日~2020年3月31日)を見てみましょう。

 

〈 テーマパーク部門 〉

2018年度(2018年4月1日~2019年3月31日)の決算、2018年度はコロナの影響を受けていない年度です。

 

  • 売上高   4374億円(連結 5256億円)
  • 営業利益  1072億円(連結 1,292億円)
  • 年間入場者数  3256万人(一日平均 9万人)
  • パーキャピタ  11,815円(チケット収入:5352円、

商品収入:4122円、

飲食販売収入:2341円)

 

それでは2019年度(2019年4月1日~2020年3月31日)はどうでしょうか。

2019年度は後半にコロナの影響(32日間休業)を受け、売上・営業利益・年間入場者数が大幅に落ち込んでいます。

 

  • 売上高   3840億円(連結 4644億円)
  • 営業利益   796 億円(連結  968億円)
  • 年間入場者数  2901万人(一日平均 7万人)
  • パーキャピタ  11,606円(チケット収入:5292円、

商品収入:3877円、

飲食販売収入:2437円)

 

2018年度と2019年度の決算数値を比較しますと、歴然としていることがあります。それは2019年度の決算数値を比較に使うことはないだろうということです。理由として、一般的には株主たちは配当金を期待して通常、右肩上がりの経営数値を求めるものです。ですから、明らかにコロナの影響を受け、売上・営業利益・年間入場者数が大幅に落ち込んでいる2019年度をベースに考えるとは思えないからです。

前述した中期経営計画の方針は「ゲストの体験価値を向上させながら、財務数値を回復させる」ということです。具体的には「2030年までアテンダンスは(2024年の入園者は2600万人程度)増やさず、しかし営業利益は1000億円以上を確保するということが明確に謳われています。予算数値は前述したように、前年をクリアし、さらにより良くしていくことが前提に組み立てられますので、売上・営業利益は落として考えることはことありえません。となると2018年度の実績数値以上を確保したいという思惑が見えてきます。営業利益を1000億円以上と言っていますが、できれば、2018年度に達成した「1072億円」は達成したいと考えているはずです。しかし、入場者数を2600万人に抑えて2018年度の「1072億円」の営業利益を確保するには、売上は2018年度のテーマパーク部門の売上、43470億円をまずクリアする必要があります。この4370億円の売り上げを確保するには、二つの方法が考えられます。一つは正攻法でパーク内から得られる収入「お客様一人当たりの売上高を上げて行く」、もう一つはパーク外から得られる収入「スポンサー収入他を上げる」ことです。

それでは2018年度の売上をこの二つに分けて考えてみましょう。

テーマパークの売上は「入場者数×パーキャピタ(お客様一人当たりの売上高)」で表されます。2018年度の入場者数は3256万人で過去最高でした。パーキャピタは11,815円これも過去最高でした(10年前の2012年度10,601円から毎年、少しずつ上げています)

 

〈テーマパーク売上〉 〈パーク内収入〉  〈パーク外収入)

 437,400,000,000 ―(11,815×32,560,000)= 52,703,600,000

   4374億円      3847億円      527億円

 

テーマパークの売上4374億円とありますが、純粋のパーク内でゲストが消費する売上3847億円を引くと、この527億円はパーク外から得られる収入になります。

 

パーク外から得られる収入の大きなものスポンサー収入です。これは相手先のこともあり、簡単に契約額を上げることはできません。となると、パーク内収入を増やすしかない、入場者数を3256万人ではなく2600万人に減らして売り上げを確保するにはパーキャピタを上げて行くしか方法がないのです。

 

ではどの位パーキャピタを上げれば222018年度の売上4374億円が確保できるのでしょうか。パーク外の収入は固定的に入ってくるものと考えますと

 

パーキャピタをxとすると、

x×26,000,000=384,696,400,000

x≒14,796

となります。

コロナ前の2018年度のパーキャピタが11,815ですから、実に25.2%のパーキャピタ増を見込まなければなりません。ですが、直近の2022年度の決算報告のパーキャピタを見てみますと、この2年で急激に上がっており、実にパーキャピタが14,834になっています。要は直近のパーキャピタをベースに考えれば無理なくこの事業計画は達成できることになります。そして、コロナの影響が無くなれば確実に達成できると読んでの事業計画だと思います。さすがOLCです。ただ気になるのはこの急激なチケット価格・飲食価格・商品価格の値上げです。OLCは「体験価値を上げる」と言っていますが、クォリティを上げての値上げなら良いのですが、飲食・商品についてはそうは思えない状況が見受けられます。

 

改めて、パーキャピタの中身を見てみますと

【 パーキャピタ比較 】単位:円

 

            2018年度   2021年度

 パーキャピタ     11815   14834(25.6%増)

   (内訳)

   チケット収入   5352    7049(31.7%増)

     商品収入   4122    4548( 9.8%増)       

    飲食収入    2341    3237(38.3%増)

 

この3年間で全てにおいて、単価を上げてきています。

このゲスト一人当たりの売上高の推移を見ますと、若干の増加を見込んでいましたが、あまり変わらず、2020年度から急激に増加しています。

OLCはコロナ禍でアテンダンスが大幅に落ち込んでもアトラクションの新規導入を果敢にしてきましたので、アトラクションの体験価値は確かに上がっているのでしょう。また国外を見てみますと、米国ディズニーではチケット価格がカリフォルニア・・・$104~164、フロリダ・・・$109~159と日本よりも大幅に高いのです。ですから、値上げしてもゲストが離れないと考えているのかもしれません。

これはこれで理屈は合っています。しかし、私は体験価値というのはアトラクションだけではないと思うのです。

一般的にゲストはアトラクションに何回乗れたか、お気にいりのライドに乗れたかで満足度を判断していますから、ですからコロナ下でも果敢にアトラクションを導入していたOLCの第一義的には理解できます。

しかし、体験価値はこれだけでしょうか。

ショーについてはどうでしょうか。以前ならダンサーの場面が変わる時に髪形を変え、コスチュームを変えていたと思われる個所をみても、同じものを使い回し、パレードでも同じフロートを使いまわし、商品ではイベントごとに変えていたショッピングバッグも両パーク共通に、飲食施設では各テーマに合わした料理、使われる食器もテーマに合わせて店ごとに違っていたのに今は細かいところのこだわりが薄れてきているように見えます。価格だけが上がり、ファーストフードのみならずレストランまでもがペーパー皿やカップに・・・

 体験価値はアトクションだけではなくショー、パレード、商品、飲食全てものにあるはずです。ディズニーの世界はテーマに基づくストーリーで成り立っています。このストーリーに基づいてキャストたちは演じているのです。ウォルトはパークを大空の下の巨大なステージになぞらえ、働いている従業員はお客様を素敵なショーの世界に誘うキャストと名付けたのです。例えば、ブルーバイユーというレストラン(カリブの海賊で乗船した時に右手に見えてくるレストラン)ではミシシッピ川流域に住んでいる成功した貿易商が自宅の庭で夜、ガーデンパーティを開催しているという設定です。レストランに入ると庭には中国から輸入した提灯がぼんやりとした光を放ち、薄暗く、ゲストはこのガーデンパーティに招待されたお客様ですから、昼間でも「こんばんは!!」と挨拶されるのです。それだけではありません。

提供される料理はニューオリンズという場にこだわりケイジャン料理、クレオール料理です。当時の総料理長は本場ニューオリンズ迄行って、本場の料理を持ってきました。そんな経緯を知っている私には体験価値がアトラクションだけに限定され、テーマショーの世界を忘れてしまったように見えるのです。また、体験価値の中の最も大事なゲストとキャストのコミュニケーションの世界はどうなっているのでしょうか。ウォルトはコミュニケーションが大事なショーの一部と言ってきました。ですから挨拶も、TDL開業時、パーク外の飲食施設や商品施設では「いらっしゃいませ」が主体でしたが、パークの中では「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」というように変えました。「いらっしゃいませ」ですと、これで会話が途切れてしまいますが、朝晩の挨拶ならゲストと会話がし易くなるという理由です。飲食施設ではサンプルケースを極力置かず、料理の説明を口頭でするようにしています。何故でしょうか。料理の説明から質疑応答、そこから生まれるコミュニケーションから体験価値を高めるからです。こんなこだわりが全てにあるからディズニーなのです。以前のような触れ合いが少なくなり、比較したら怒られそうですが、他のテーマパークと変わらないという声も聞こえてくるようになりました。これは残念です。パーキャピタを上げるのであれば、トータルの体験価値をもっともっと上げて行くことに注力を払うべきだと思います。

 

パークは永遠に未完成!! 

これからも成長し続けて欲しいです。.

 

 

 

 

 

 

 

 






 

ミッキーの誕生

ミッキーマウスの誕生について二つの話をよく耳にします。

 

一つは‟「幸せうさぎのオズワルド」の版権が契約上、「ユニバーサル社」のものとなってしまい、またチャールズ・ミンツに、ディズニーのアニメーターたちをごっそり引き抜かれ、裸で追い出されることになってしまった後、傷心を引きずりながらニューヨークからロサンゼルスに向かう汽車の中でネズミの主人公を思いついた“という説、

もう一つは‟カンザス・シティー時代(ラフォグラム・フィルム社?!)、父親から自宅の車庫を借り、小さな仕事場を作った時、夜ネズミがチョロチョロしている中作業をしていて思いついた“という説です。

 

※ 二つ目のカンザス・シティー時代の説にはさらに(1)公園のベンチに腰かけていると慌ててネズミが逃げて行った、(2)ウォルトがフィルム・アド社で働いているときにゴミ箱で昼食の残飯を食い荒らしているネズミの群れを捕まえ、巣箱を作ってペットとして飼い、その1匹にモーティマーという名前をつけた、(3)ラフォグラムのオフィスでうたた寝をしていると走り回るネズミの足音に起こされた、(4)窓から逃げだそうとして、窓枠をかじるネズミを捕まえてブリキの感に入れてしつけ、自分の指から食べ物をやり、様々なポーズを取らせてスケッチをした、という様々な話がある。

⇨ ただこれらはあまりにも安易過ぎて信憑性に欠けると思います。

 

 上記の説についてはウォルトが好んで話をしていたので、ある意味事実なのだと思います。私はネズミを使おうというアイデアカンザス・シティ時代に車庫の中で生まれ、いつかは使おうと思っていた、それが失意の中でオズワルドに代わるキャラクターを考えているときに浮かんだのが汽車の中だったと解釈しています。またある伝記の中では「ネズミをデザインしたのはウォルトだが、ひょろ長くて痩せていて、出来はあまり良くなかった。それを書き直したのがアブ・アイワークスだった」「本当のところミッキーの誕生はミッキーのユニークな性格と声を提供したウォルト・ディズニーとそのネズミに命を吹き込んだ(形と動きを与えた)アブ・アイワークスの共同作業の結果であったように思われる」とあり、これらから推察できるのは、ウォルト・ディズニーがネズミを使うアイデアとラフスケッチを考え、その後、アブ・アイワークスが今あるミッキーのイメージを創り上げていったと考えるのが正しいと思うのです。(下記、当時のフィルムタイトル参照)私はアブがいなかったら、ミッキーは今のように世界の大スターになっていなかったかもしれないとさえ思います。

 

実際に1928年の「蒸気船ウィーリー」のフィルムには

 

MICKEY MOUSE

SOUND CARTOON

STEAMBOAT 

WILIE

A WALT DISNEYCOMICS 

by UB IWERKS

 

とタイトルにあり、それを物語っているようである。

 

参考:「ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯・・・ボブ・トマス著」

参考:「創造の狂気 ウォルトディズニー・・・ニール・ゲイブラー著」

ディズニーでは何故、「いらっしゃいませ」という言葉を使わないのか?

これには涙ぐましい努力がありました^^

広く、サービス業、流通業、ホテル・レストラン業で使われてきたこの言葉、私がこの世界に入った時には接客5大用語、7大用語には必ず入っていて、誰もが言えるようにと教育されたものでした。今でもこの言葉も持つ意味は絶大なものがあります。

 

それがディズニーの開業時には「‟いらっしゃいませ“に何の意味があるのか?ディズニーはゲストとの会話を重んじる世界、いらっしゃいませと言った瞬間から会話が途切れてしまう。会話が続くように朝なら‟おはようございます”、夜なら‟こんばんは“というように!!」というフィロソフィーの指針が出てきました。

さあ、現場部門では大慌て、アトラクションでは大きな問題もなく受け入れられてきたが、飲食施設、商品施設では中々長い間に染み付いた習慣が出てしまい、中々受け入れられずにいました。

ですから、飲食施設では妥協案的に「いらっしゃいませ、おはようございます」、「いらっしゃいませ、こんばんは」と初めの1、2年は言っていたように記憶しています。特にできないのが、現場経験の豊富な店長たちでした。教える側が体に染みついて、納得していないために、結構時間がかかってしまったのです。今のように「こんにちは、今日はお暑いですね!」「おはようございます!雨の中ありがとうございます。ごゆっくりくつろいでくださいね」と言えるようになったのは開業して3年ぐらいかかったのではないでしょうか。

 

また、これは日本のホテル・レストラン業には大きな影響を与え、ディズニーの開業以降、「いらっしゃいませ」と言わずに、ごく普通の日常の挨拶言葉「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」を使う企業が増えてきています。

 

いつだったか飲食業の吉野家もマニュアルから「いらっしゃいませが消えた」という記事を見ました。新しい業態の店で、会話を促す必要が生じたからということでしたが、やはり1年半、かかって徹底したと社長が仰っていました。吉野家は色々な意味でお手本にすべきことが多い企業です。あの「うまい、やすい、おいしい」の標語はその最たるものです。吉野家の業態は「1分以内に食事を提供する‟ファーストフード“」ですから、今まで会話重視ではなかったのだと思います。ですが、これからの飲食業、流通業、テーマパークを含めた全てのサービス業は会話が大事な商品になります。早く?!気が付いて良かったと思います。

 

余談ですが、昔は日本の飲食業界やエンターテイメントの世界では出社時には昼であっても、夜であっても、「おはようございます」と言わなければなりませんでした。それらの世界では昼から夜にかけて仕事をする業種だったからです。ですから、ディズニーのエンターテイメントの世界に生きてきた人たちにとってもこの習慣となっている挨拶を変えるのはゲストに対してだけではなく、キャストに対しても大変だったのではないかと推測しています。今はどうなっているのでしょうか?でいつか関係者に確認してみようと思います。

 

先日、NHKの「チコちゃんに叱られる」22’03‘18の放送を見ていて、「いらっしゃいませ」の語源について、明治大学齋藤孝教授が説明していて、改めて勉強になりました。それによりますと、「徳川家康東海道53次(江戸日本橋京都三条大橋)を整備し、数多くの宿、茶屋が生まれたところから江戸中期から後期にかけて広まった」とありました。浮世絵師の歌川広重の「旅人留女(たびびとどめおんな」の絵にも客引きの様子が出てきますが、当時は東海道492kmに3000もの宿があり、名古屋の熱田区宮宿には熱田神宮があったせいでしょうか、284軒の宿があったそうで、相当な客引き合戦が繰り広げられていたと想像できます。それ以前は「おいでなさいまし」が一般的でしたが、これでは丁寧だが活気が無い、「いらっしゃいませ」の方が声高に叫ぶことでアピールできると考えたのでしょう。

「いらっしゃる」は来る、行く、いる、の尊敬語、それに丁寧の助詞「ます」の命令形「ませ」が付いてできたというのです。

 

いらっしゃる」⇒「いらっしゃり+ます」⇒のイ音便化・ますの命令形ませ⇒「いらっしゃいませ

 

確かに説明されると呼び込みの言葉だったと理解できます。今では元の意味を意識することなく挨拶の言葉として定着しているのがよく分かります。そしての接客コンテストの優勝者は「お客様の存在を意識していますよ」「いつでもサポートできますよ」という意思表示と考えていると言っています。私としてはどちらでも良いのですが、サービス業は益々、接客の中でも会話が重要になっていきます。客単価の高い、低いにかかわらず、お客様の意を叶え、来て良かった、又来たいと思わせられる接客をしたいものです。

 

21世紀、接客(会話)の重要性は益々増しています。

スプラッシュマウンテン裏話・・・

1992101日にスプラッシュマウンテンがオープンしました。

 

 スリル満点!!45度の急流を滑り落ちる水しぶき飛び散るアトラクション。ディズニー映画「南部の歌」をモチーフに、ブレアラビット、ブレアフォックス、ブレアベアと共に愉快な冒険をしながら丸太をくりぬいたボートで巡るお話です。

 

ここまでは誰でも知っているスプラッシュマウンテンですが、実はアメリカのスプラッシュマウンテンと日本のスプラッシュマウンテンは名前が一緒でも中身は微妙に違います。

 

ディズニーのアトラクションはどこの国のものを見ても何一つ同じものはありません。

 

 まず、ライドです。アメリカは1×7(ワン・バイ・セブン)のタンデムシートですが、日本では2×4(ツー・バイ・フォー)で同じ丸太をくりぬいたライドでも形状が違います。東京ではアメリカでの問題点(人気があるが、股を開いて乗るため女性には抵抗があり、キャパシティが減る)をクリアし、キャパシティを大きくし、8人乗りにしたのです。

 また、それに伴い水流テストを何度も行い、二つのシステムの改良をしています。

 ひとつはこのアトラクションの最大のポイントである最後に滝壺に落ちるシーン、アメリカでは気候がカラッとしているので水しぶきが上がってずぶぬれになっても平気ですが、日本では四季もあり、濡れた状態になったらゲストコンプレイン間違いなしです。想像してみてください、お正月、晴れ着姿で来たゲストがずぶぬれになることを・・・。そこで日本では大きな水しぶきが上がっても濡れないようブレーキシステムを微妙に変えています。

 もう一つは、スプラッシュマウンテンはローラーコースターライドの構造を応用していますが、一般的にローラーコースターは低いところから高いところへ移動していく際、カタカタ音がするのです。このカタカタという音はショーを台無しにするということで、音がしないようサイレントアンチロールバックシステムを独自開発しています。

 

 ディズニーは絶えずより良くしてオープンさせようとしていますので、何一つ同じアトラクション、ショーは無いのです。

ディズニー・レジェンド

ちょっと、いかめしい感じのタイトルだけど、ウォルトと共に歩んだ人たちからつい最近までのディズニーゆかりの人たち、ここでは私の個人的な思い入れの方々、数人を紹介したいと思います。

この賞は、1987年、ロイ・E・ディズニー(ウォルトの甥、ウォルトの兄、ロイの息子)によって設置された委員会によって選出されたもので、ディズニーに著しい貢献があった人に与えられる賞です。

 

【 日本 】

TDLを創った高橋政知さん、

TDSTDRを創った加賀見俊夫さん、

・コンシューマー・プロダクツの横山松夫さん、

TDL開業時に日本人スタッフがお世話になり、アメリカのパーク&リゾートでホテルの運営に力を尽くした雨宮英雄さん、

 

【 アメリカ 】

TDL開業時、アメリカのパークの社長だったディック・ヌーニスさん、

・TDL、世界中のディズニーテーマパークのデザインをしたWDI元社長のマーティ・スクラーさん、

・TDL開業に尽力をしたジェームス・コーラさん、

・お掃除の神様と言われたカストーディアルの責任者チャック・ボヤージアンさん、

・ウォルトと一緒に仕事をし、ミッキーの肖像画家、日本にも来たジョン・ヘンチさん、

TDLの「スターツアーズ(スターウォーズシリーズ)」TDSの「インディージョーンズ」で馴染みのジョージ・ルーカスさん。

TDL開業、そして10年

 

 それでは開業からの10年、どんなアトラクションやショーがオープンしたのか、見ていきたいと思います。

 

1983.4.15   東京ディズニーランド開園

・・・世界で3番目のディズニーテーマパーク誕生

 

1984   ファースト・アニバーサリー

 

1985   東京ディズニーランドエレクトリカルパレード

・・・光のフロートとダンサー、パフォーマー達によるナイトスペクタキュラー

 

1986   アリスのティーパーティー オープン

・・・「不思議の国のアリス」マッドハッターのお茶会をテーマにしたティーカップの回転ライド

 

       アリス・スプリングフェスティバル

・・・アリスが迷い込んだ不思議な国は愉快なお祭りの最中

 

       シンデレラ城ミステリーツアー オープン

・・・TDL独自のウォーキングタイプのアトラクション、悪を退治するのは誰か?!

 

1987   キャプテンEO オープン 

・・・主演マイケルジャクソン、製作総指揮ジョージルーカス、監督フランシスコッポラの豪華メンバーがお送りする3Dミュージカル・スペースア・ドベンチャー。これは1996年クローズするも、2009年マイケルジャクソンの死去に伴い2010年に復活、2014年年にクローズした。ディズニーの歴史の中で一度クローズしたアトラクションを再演するのは初めてのこと。ちなみに1997年から2010年まではミクロア・ドベンチャー

 

       ビッグサンダー・マウンテン オープン                                                  ・・・1800年代のカリフォルニアゴールドラッシュが過ぎ去った後の廃坑を猛スピードで走り抜け分る鉱山列車。当時の金鉱で実際に使われた台車、道具、計量器などをディスプレイし創り上げ、ドキドキスリル暗転のアトラクション。

 

        ディズニー・ミュージカルファンタジー

 ・・・ディズニーの名場面を音楽とダンスで繰り広げるキャッスル前ショー

 

1988    ディズニー・クラシックス・オン・パレード

 ・・・ディズニーの名場面を題材にしたパレード

 

1989    スターツアーズ オープン

・・・ディズニーとジョージルーカスによって生み出されたスペース・アドベンチャー。おなじみR2-D2C-3POの掛け合いの下にスタースピーダー3000に乗て・・・今はショーアップしている。また、ポストショーとしてイタリア系宇宙人がやっているピザレストランパンギャラクティック・ピザ・ポートに抜けるまで楽しくできている。

 

         アメリカン・/オールディーズ

・・・50年代、60年代のアメリカ、 プラザバンドスタンドで繰り広げられたロックンロールショー。

              

1990     スターライト・ファンタジー・ファンタジア‘90

・・・映画ファンタジアの50周年を記念して造られたナイト・エンターテイメント。

ミッキーがキャッスルの上から登場

 

1991     ディズニー・パーティグラ・パレード

・・・ラテンのリズムにのせて、歌い踊る華やかで陽気なカーニバル

 

1992     スプラッシュ・マウンテンクリッターカントリー) オープン

・・・映画南部の歌をモチーフにブレア・ラビット、ブレア・フォックス、ブレア・ベアの愉快な冒険を追いかけながら、丸太をくりぬいた船で周ります。最後にはスリル満点、45度の急流に落ちていきます。これによって、TDL3つのマウンテンが出そろいます。

 

         ディズニー・ワールドフェア

 ・・・ディズニーの仲間たちが世界を繋ぐ感動一杯のスペシャルイベント

 

 1993    ビジョナリアム オープン

 ・・・ビジョナリアムは夢を現実のものに変える空想家の館。そこにあるのは人類初のタイムマシン。全人類の大いなる夢を載せて初実験が行われようとしている。マシンを操作するのはロボットの‟タイムキーパー”、フォトドロイドの‟ナインアイ“に時間と空間を超えさせ、彼女の9つの目から、先史時代から、氷河期、中世、ルネッサンス期のイタリア、1900年のパリ万博・ジュール・ベルヌの世界へと次々にタイムスリップしていく・・・これは私にとっても思い出のアトラクション。タイムキーパーには所ジョ

ージさん、ナインアイには斉藤由貴さん、ジュール・ベルヌには岡田真澄さんに声の出演して頂いた。2002年クローズし、その後「バズ・ライトイーのアストロブラスター」が2004年オープン

 

        10周年 10th アニバーサリー・スペクタキュラー

            ディズニー・ファンタジー・オン・パレード

             マジック・イン・・ザ・スカイ

ウォルト・ディズニー、手塚治虫、ジョージ・ルーカスは繋がっていた・・・

 手塚治虫のすごさは、一定のジャンルに留まらず、多分野に渡り(戦争、未来過去、怪奇、ホラー、SF、医療等)そのキャラクター、ストーリーを自ら考え、その魅力、面白さを作画として表現できることです。またその全てが人間とは何か?愛とは何か?その根源に迫り、見ているものに問いかけ、知らず知らずのうちに考えさせられてしまうのです。それを昭和20年代、30年代の当時低級とされていた漫画の世界に持ち込んだのです。

その意味では海の向こうではウオルトが漫画からアニメの世界を創り上げ、同じようなことを手塚が生まれた時には既にやってのけているわけで、手塚がいつディズニーを知ったのかはわかりませんが、ストーリーやキャラクターの重要性について大きく影響を受けたのは間違いないと思います。ただ一つ違うのは、手塚は自分でストーリーを創り上げ、それに合うキャラクターを考え描いていったことに対して、ウオルトは誰でも知っている西洋の童話(白雪姫、シンデレラ他)をアレンジして独自の世界観を創り上げていったことです。

 

手塚プロダクションはライオンキングの盗作疑惑の時に静観し、訴えて出なかったのは手塚の思い(・・・ディズニーが好きだった)を知っている現在のスタッフが英断を下したのだと思います。

 

また、何処かで共通していて嬉しかったのは、アメリカのジョージ・ルーカスです。中野晴行さん監修の「手塚治虫からの伝言」の中に手塚が1977年にわざわざアメリカまで「スターウォーズ」を見に行っていると書いてありました。手塚はSFにも興味を持っていたからのようですが、これを監督したのが、幼いころからディズニーが大好きだったジョージ・ルーカスです。

彼が設立したルーカスフィルム社」は2012年、ウオルト・ディズニー・スタジオの傘下に入りました。当時はとてもセンセーショナルな出来事でした。私自身、1980年カナダのバンクーバーで、「スターウォーズ、帝国の逆襲」を見てからのファンでしたし、TDLスターツアーズ1989年導入に関わっていたので、あのルーカスフィルム社がディズニーの仲間に入ってくれたとよく覚えています。